26歳、男性
ご本人がメイルで送って下さいました。
非常にお若くして脳梗塞を発症された、まれなケースだと思います。
ここに私が入院中に書いた手紙を公表します。
右手が使えない為、左手で書きました。この手紙を全国にいる会社の同僚、友達に送 りました。
B5レポート用紙に6枚、1日1枚のペースで書いた手紙です。
(でも、1枚書き上げるのに何時間掛かったことか)(笑)
私は日記をつけてませんでした。その為、この手紙が唯一の日記みたいなものです。
これを、「闘病気」に載せていただけたら幸いです。
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〇〇〇様
まず、左手で書いているので字が汚い、読みづらいなど、申し訳ありませんがお許し
下さい。←お世辞にも上手いとは言えない字だった
発病から現在(H10,5月現在)に至るまでの闘病の手記とお願いを手紙に託し送
りましたのでご覧下さい。
去年(H9)の11月24日、正確には11月23日の23:00~11月24日
0:00の間、突然口が曲がり、自分で普通に言ってるつもりでも相手には、何を言っ
てるのか分からない。
続いて右半身、右手足の麻痺、右手がグーのまま指が開かず右足は立つこともできず
倒れ、朝になり○○市内の病院へ行きました。
そこで点滴を1本注射しただけですぐに救急車を手配、行き先を教えられることなく
到着したところが、「○○大学医学部付属病院(以後、○大)」でした。
○大ですぐにMRI、CT etc... 検査をして、その結果が脳血栓と原発性抗リン
脂質抗体症候群の合併症、のちに脳梗塞と診断され緊急入院となり、自分では「2,
3日で良くなる」と思っていたのですが、長期入院になり、また、担当のドクターか
ら100%治らないし後遺症が残ると言われ、ショックでした。
会社の人、親戚、多くの友達、遥々仙台からも見舞いに来て励ましてくれましたが、
右手が「グー」のまま、立つことさえできない自分が情けないことを、今でも覚えて
います。
○大入院の初め3日間は絶食、10日間を24時間点滴しっぱなし。また、導尿をつ
け、身動きとれない状態で苦痛そのものでした。脳梗塞が原因で命が危うく、死ぬと
ころでした。
後日、MRIの写真を見せてもらい、脳の左半分が「真っ白」なことに気が付きドク
ターに確認したところ、左脳半分が死んで脳細胞は復活しないとのこと。ただ、写真
に写らない細かな毛細血管がバイパスされ極僅かな細胞が生きてる状態とのこと。
(右脳は正常、普通は黒く影になって写真にでる)
左脳がほぼ全滅、つまり、死んでしまったのです。現在(これからもそうですが)も
脳の半分が死んでます。話しをする時に、時々呂律が回らないし、記憶の一部を忘れ
ることもしばしば、右手は飾り、右足はびっこ引いて歩くなど。
10日間が過ぎ、○大でリハビリが始まりました。と、同時に本当の意味で自分との
闘いが始まりました。
リハビリでは手と足で異なり、手が「作業療法」、足が「理学療法」と、まずは作業
療法から説明します。
閉じた手を開き、指が動き、握力が正常になるようにと、リハビリメニューが組み込
まれました。最初はお手玉を使った訓練でした。右から左、左から右へと、移動す
る。たったこれだけの動作なんですが「グー」の状態から手を広げる、困難でした。
また、カップ(名前が分からないので)を左右に動かす。また、電気を掛ける、これ
が最初のリハビリメニューでした。
「理学療法」は、立つこと、歩くこと。これがリハビリメニューでした。
○大では車椅子の生活。その為立つことが恐かったこと、今でも思い出します。
例えで言うなら「フランダースの犬」に出てくる、クララ、そのクララが車椅子から
立ちあがるシーンがありますよね。(知ってる人、いますか?)
丁度、あの感じです。
杖と使い引きずる足を上げ、歩く。また、階段の昇り降り、腹筋、お尻の上げ下げ、
這うようにして、ほふく前進のような感じであるく。
こんな感じでリハビリをしました。
ドクターが「手術しないでリハビリのみでやる」と、言ったときは、不安でした。
しかし、ドクターを信頼するしかなかった自分は「不安」と、言っていられませんで
した。
その後、3週間が過ぎ、○大から○○○村にある、「○○○リハビリテーション病
院」へ転送してきたのが、12月16日、世間ではクリスマスとか師走の忙しい、そ
んな時期でした。
正月も病院で過ごし、寂しかったものです。
○○○に来てからのリハビリは、○大とさほど変わり有りませんが、理学療法は○大
にいた時のほかに自転車を扱いでいました。(スポーツクラブにあるような感じのや
つです)
その自転車を毎日1時間、負荷(錘と言えばいいのでしょうか?)を、最初は40
w、慣れてきて、今では130wで扱いでいます。分かりやすく説明すれば、坂道を
全力で扱ぐようなもので、汗が止まらない感じです。そのお陰で随分と痩せました。
(発病時が95kg、○○○にきた時で90kg、現在(この手紙を書いてたとき)
72kg、退院後の現在は65kg~68kgを行ったり来たり)
作業療法は64本のピンをひっくり返し、ネジを左右に移動(掴むのがやっとの小さ
いネジ)、36本のの棒を、右腕の肘を曲げないようにして左右に移動、輪投げ、握
力を付けるために、グリップを握る、そして最後に手に1kg、棒に1kg、計2k
gのウエイトを付け、勾配が50゜の台の上を滑らす訓練、これを、10分間。この
最後の滑らす訓練が一番つらく、腕が棒のように疲れます。←自分の腕じゃないみた
い??
それとは別に、訓練の時間以外にも、「自主訓練」と、言うことで、いろんなことを
実践してきました。だって空き時間を有効に使わないと、勿体無いような気がしたん
です。←これが利いたのか、かなり回復が早かったような気がします。
階段の昇り降り、初めは少しずつでしたが回数を重ねる度に500~1000回、2
kgの鉄アレイを左手で500~1000回、右手で100回、ゴムボールを左手で
300回、右手で100回、最後に「くるみ」を2コ手で動かし、ベットで腹筋、休
みながらですが50~100回、と自分で 出来そうなことはやって来ました。
その後、作業療法も、メニューが増し、利き手交換ということで、左手を使った訓練
も始まりました。もちろん右手は今まで通りのことはやってきてるのですが。
左手で字を書く、御飯を食べる、日常の動作を左手でやると言うものです。それに、
「右手の機能が70%までしか回復しないとしたら、左手で130%の機能を身につ
けないとだめだ!」と、言われました。確かに一理ある話しではありますが、この、
「利き手交換」すごい時間が掛かりました。
この手紙を書けるまでに半年は掛かりました。
平成10年5月24日で入院から半年、身体障害者手帳の申請します。(現在交付済
み)
受理されると、障害者確定。悪く言えば障害者と言う理由で、何かと不便になるで
しょう。
自分は会社を2月25日で解雇され、(現在は復職可能になるようにと、色々手
続きしてくれた。感謝です♪)また、結婚する予定だった女性に、病気が理由で別れ
ることになり死を覚悟しました。
「生きてても周りのみんなに迷惑が掛かる、それに、長年付き合った女性と別れるこ
とになった。」
そう思ったんですが死ぬことが出来ませんでした。
婚約者の女性とは、高校からの付き合いでした。その間に色んなことがありました。
結婚の話しになった後の病気だけに、随分悔しい思いをしました。「なんで脳梗塞に
なったんだろう?」「病気にさえならなければ...」立ち直るまでに、時間が掛かり
ましたが、今は「縁がなかった」と思うようになりました。1度目は病気で、2度目
は死ぬ覚悟だった自分を多くの友達や家族など、励まし勇気を与えてくれ、不自由な
体にもめげず頑張って生きていこうと思ったのです。
3月になり、同僚から復職できることを聞かされました。
自分の保険契約は同僚が代理で行うとのこと。また、字が書けて、車の運転できるこ
とが復職の条件なのでリハビリを現在も続けています。こうして字を書くこともリハ
ビリなのです。
復職できるきた時、言葉では言えない感謝の気持ちで涙が止まりませんでした。
今、自分で出きること、入院していても出きること。多くの人に手紙を書く、これく
らいしか出来ませんが退院後、お礼を兼ねてそちらへ行こうと思います。その時はご
迷惑をかけると思いますがよろしくお願いします。後日、改めてこちらから連絡しま
す。